Daryl Jamieson

composer

1月28日 鎌倉能舞台 「羽衣」と「昆布売」

旧正月の今日、鎌倉能舞台へ能の傑作「羽衣」を見に行きました。三保の松原を舞台とするおめでたい曲というだけではなくて、羽で作った衣についてのストーリーだから、今年の酉年、その立春という季節には本当に適当な曲だと思いました。
「羽衣」の前に、狂言の「昆布売」を見ました。「羽衣」と「昆布売」は相補的な曲だと思います。なぜなら、両方の台本とも格差のある社会を背景にした曲ですが、「昆布売」は世俗的(卑俗な)アプローチ、「羽衣」は精神的だからです。「昆布売」では、昆布を売る商人と侍が激しい論争をします。商人が武士の刀を盗み、刀を盗られた侍はお金を得るために昆布を売るために、歌を教わります。これを階級闘争の話としてみると、階級の構造そのものが革命的に変わったわけではなく、両方がその場で身分を交換しただけです。侍は身分を落とし、かつ商人は何にせよ盗むことで品格を落としたのでは、と思いました(もちろんこれは狂言ですから、武士を商人がとっちめる、という行為にカタルシスがあって、それが眼目になっているのだと思いますが、わたしのような見方もあっていいと思います)。一方、「羽衣」の登場人物は天人と漁夫、つまり高い霊性を備えた存在と労働者です。漁夫は天人が失くした衣を見つけます。その衣を着なければ天界へ戻れないので、天人は漁夫に衣を返してくださいと頼みます。結局この漁夫は綺麗で神秘的な舞を舞うのと引き換えに羽衣を返します。舞を奏すると、天人は天界へ戻っていきます。この話にも、身分の革命的な交換の可能性もないでしょう。しかし「昆布売」に比べて、「羽衣」の二人の登場人物は両方が相互に信頼し、芸術を通じて両者は精神的に高められた、と言えるのではないでしょうか。
音楽的にみて「羽衣」には特徴的な部分が結構あります。まず高揚感が作り出されると突然それが切れ、すぐに沈黙する(ちょっと小鼓の音はありますが)とパターンが2、3回ありました。それは演劇的に印象的なテクニックでしょう。舞の後で突然に地謡が謡いはじめたのも心に残りました。「羽衣」の中で、囃子の大鼓と小鼓の二人はよく同時に掛け声を出していました。多くの能では、囃子は別々のタイミングで声を出していたように思います。「羽衣」を見て、これはびっくりしたけれど素敵な不協和音の掛け声であったと、今日は大いに楽しみました。
家から能舞台までは徒歩25分なので、行き帰りに近藤譲さんのただ一つのオペラ「羽衣」を聴いきました。近藤氏の「羽衣」の台本もスコアも見たことはありませんが、このオペラの言葉には能の引用があるらしいと思いました。音楽的には殆ど能の影響がなさそう…そこがいかにも近藤さんらしい作品だと言えるかもしれません。といっても、フルートソロは結構あり、それは時折能管っぽい旋律だと思いました。このオペラをフルステージで見てみたいと思います。アリストテレスのいう演劇的なストーリーではありませんので、どうやって演奏できるんだろう、とわたしは考えていました。